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第2話 今度は、ここにいる

last update publish date: 2026-10-05 09:53:12

「……また、借金の人?」

 千鶴の声が震えていた。

 玄関の向こうから、もう一度戸を叩く音が響く。

「神谷! おるんだろ! 金の話だ!」

 正人は破いた競輪専門紙から手を離した。

 記憶を探る。

 誰だ。いくらだ。

 二十四歳の自分は、借金の額すらまともに管理していなかった。給料日前になれば酒代や車券代を同僚や知人から借り、「次の給料日に返す」と言いながら、その給料まで競輪へ持っていった。

「この前も平野さんから三千円借りたでしょう」

 千鶴の言葉で思い出した。

 平野昭夫。

 近所に住む三十代半ばの工員だ。

「返さなかったら、今度は会社まで行くって……」

「分かった。俺が話す」

 正人は財布を確認した。

 千円札が一枚と、小銭。

 千鶴が貯めた三万円には触れない。

 今日は千円返し、残り二千円は給料日に返す。

 三千円そのものより深刻なのは、約束を守らず、催促から逃げ続けてきたことだった。

 信用を失った原因は金額ではない。

 神谷正人という人間だ。

 戸を開ける。

「やっと出てきたか」

 油染みのついた作業着姿の平野が立っていた。

「神谷。三千円、いつ返すんだ」

「今日、千円返します。残り二千円は次の給料日に全部返します」

「……また口だけじゃねえだろうな」

「そう思われても仕方ないです」

「今まで何回、給料日に返すって言ったよ」

「覚えとらん」

「はあ?」

「それくらい、俺がいい加減だったってことです」

 平野が黙った。

 正人は紙を一枚取り、

『平野昭夫さんより借入 三千円

 本日返済 一千円

 残額 二千円

 次回給料日に全額返済』

 と日付と名前まで書いた。

「これでお願いします」

「……お前、どうした?」

 平野の視線が卓袱台へ向く。

 そこには破かれた競輪専門紙があった。

「今日、競輪行くんじゃなかったのか? 三万円あるって吹いとっただろ」

 千鶴の身体が強張った。

 正人は奥歯を噛んだ。

 妻が出産のために貯めた金を、自分の軍資金のように喋っていたのだ。

「その三万円は俺の金じゃありません。千鶴と、生まれてくる子どもの金です」

「……そうかよ」

「ほかにも借金があります。誰からいくら借りたか全部調べて、一つずつ返します」

「本気か?」

「はい」

 平野はしばらく正人を見てから、千円札を受け取った。

「給料日だからな。今度破ったら本当に会社まで行くぞ」

「それで構いません」

「……気味悪いくらい素直だな、お前」

 平野が帰る。

 正人は戸を閉めた。

 改心した、もう昔の自分とは違う。

 そんな説明に意味はない。

 次の給料日に二千円を返せば一回。その次の約束を守れば、もう一回。

 信用は実績で積み直すしかない。

「……本当に返すんですか」

 千鶴が尋ねた。

「ああ」

「平野さんだけじゃないでしょう」

「分かっとる。全部調べる」

 同僚の田中。

 先輩の大橋。

 酒屋へのつけ。

 正確な総額すら分からない。

「俺の給料から返す。この三万円は使わん」

「でも、生活費だってあります」

「だから働く」

 八千億円企業を経営した知識があっても、今の正人には資本も信用もない。

 家は借家。

 妻は出産目前。

 そんな状態で店を借り、大金を投じる経営者がいれば、七十四歳の自分なら止める。

 再建で最初にやるのは、成長ではない。

 出血を止めることだ。

 酒。競輪。無計画な借金。

 まず、それを止める。

「千鶴」

「……何ですか」

「今までの借りは一つずつ返す。金だけじゃない。お前に負わせたものもだ」

 千鶴の表情が揺れた。

 だが、何も答えなかった。

 それでいい。

 今日、競輪へ行かなかった。

 三万円へ手をつけなかった。

 借金を千円返した。

 まだ、それだけだ。

 その時だった。

「……っ」

 千鶴の顔が歪んだ。

 両手が腹へ伸びる。

「千鶴?」

「お腹が……痛い……っ」

 身体がくの字に折れた。

 正人は反射的に駆け寄り、その身体を支えた。

 背筋を冷たいものが走る。

 これだ。

 この時間だ。

 前の人生では、自分はここにいなかった。

 競輪場で出走表を睨んでいた。

 その間、千鶴は一人でこの痛みに耐えていた。

「待っとれ。今度は絶対、一人にせん」

 千鶴を畳へゆっくり横たえる。

 額には汗が浮かび、唇から血の気が引いていた。

「千鶴、聞こえるか。出血は?」

 苦しそうに頷く。

 怖かった。

 だが、根拠もなく「大丈夫だ」と言う方が危険だ。

 救急車。

 保険証。

 母子健康手帳。

 現金。

 優先するものは、千鶴と子どもの命。

「すぐ戻る」

 正人は玄関を飛び出した。

 昭和五十一年。

 携帯電話はない。

 若い神谷家には固定電話すらなかった。

「澄江さん!」

 隣家の戸を叩く。

 山田澄江が驚いた顔で出てきた。

「正人ちゃん? どうしたの」

「電話貸してくれ! 千鶴が倒れた! 腹が痛くて、出血もある!」

「早く入りな!」

 玄関脇の黒電話へ飛びつく。

 一一九番。

 神谷千鶴、二十三歳。妊娠中。出産予定日が近い。強い腹痛。出血あり。意識あり。

 聞かれたことだけを順番に答える。

 事故でも経営危機でも同じだった。

 分からないことを決めつけない。

 事実を伝え、最優先のものへ人を動かす。

「救急車、来てくれるって!」

「ありがとうございます!」

 正人は家へ駆け戻った。

「正人さん……」

「ここにおる」

「競輪は……?」

 胸が締めつけられた。

 こんな時にまで、それを聞かなければならないほど信用を失っていた。

「行かん。今日だけじゃない。もう行かん」

 千鶴は答えなかった。

 正人も、それ以上は言わない。

 保険証。

 母子健康手帳。

 着替え。

 タオル。

 そして卓袱台の三万円。

 前の人生では車券になって消えた金を、今度は千鶴と子どものために風呂敷へ入れた。

 遠くからサイレンが聞こえてくる。

 救急隊員が到着し、千鶴を担架へ移した。

「ご主人も来られますか?」

「行きます」

 即答した。

 前の人生では、この時刻、自分はいなかった。

 なら今度は、一秒でも長くここにいる。

 救急車の中で千鶴は浅い呼吸を繰り返していた。

「千鶴」

 正人は手を差し出しかけた。

 だが千鶴の指は動かない。

 静かに手を引いた。

「分かった。ここにおる」

 信用を失うのは一瞬だ。

 取り戻すには時間がかかる。

 家族の信用は、商売よりずっと重い。

 病院へ到着すると、千鶴はすぐ奥へ運ばれた。

「ご主人はこちらでお待ちください」

「お願いします」

 扉が閉まった。

 その瞬間、正人の膝が震えた。

 工場なら原因を探せる。

 赤字店舗なら数字を分解できる。

 物流なら経路を組み直せる。

 八千億円の企業まで育てた。

 それでも、この扉の向こうで働く医師や看護師の代わりだけはできない。

 正人は長椅子へ腰を下ろし、震える両手を組んだ。

 前の人生では、ここへ来ることすら遅すぎた。

 今回は違う。

 ここにいる。

「……頼む」

 八千億円でも買えなかったものが、今、その扉の向こうで生死を分けていた。

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